晴々とした夜空だった。
雲は一つも空には浮かんで折らず、星も、何時も見る以上に綺羅綺羅と光って、流れ星さえ見えてしまった。
それなのに。
それなのに、何故。
月は、出ていなかったのだろう?
月が出ていたら。月光が照らしていれば。
自分も一緒に、死ねただろうに―――――。
大人は誰も、信じてくれなかった。復讐すべき相手の存在を、一切を持って否定していた。それは絶対的拒絶であると同時、認めてしまえばそれまで自分らの抱き続けてきた世界観が著しく崩壊する。
だから、誰にも頼ろうとはしなかった。誰もが、自分を冷めた目で見つめていた。それでも構わない。父の仕事関係で住んでいる場所は、復讐するには持って来いの環境だった。
絶対的復讐手段に、銃を取った。満足に構えることすら出来ない小さくて重い、その手にした銃名が、ディファイアント―――――反抗的意を連ねる改造の施された、“デリンジャー”と呼ばれるモノであると知ったのは、随分後のことである。大人の目に付かぬよう所持しているには、かなり気を遣った。
絶対的復讐手段に、運動能力を欲した。自分では非力過ぎて、少しも動かせやしないトレーニングマシーンを動かそうとして、毎晩泣いた。そのまま学校に行くと、目は腫れ、酷く手足が痛んだ。先生が、何度も何度も声をかけて来てくれた。学校の体育の時間は、友達よりも2倍も3倍も動いた。
絶対的復讐手段に、擬装を知った。学校の友達の前では、その幼い復讐の鬼相を隠して、偽りの笑みを浮かべ続けていた。その内、人を騙すことも、裏切ることも、何の躊躇いも無く出来る様になっていた。さらには、人が何を考えているのかが大体把握できてしまうようになっていた。
絶対的復讐手段に、独学を積んだ。学校で習う理科や算数等は論外に等しい。体術から化学反応式、読むものは吸い取るように全て覚えていった。この頃からだった。成績は異常なまでに延び、先生は褒めるどころか……ただ、自分を抱きしめて目を瞑って何かを必死に唱えていた。
それを繰り返した。毎日、喩え体や意識が悲鳴を上げても、止めなかった。意識が飛ぶまで、毎晩毎晩繰り返し続けてきた。動きそうにもない小さく幼い体を動かしたのは、純粋な復讐心。拾夜。陌夜。阡夜。何粒の涙を流したか、解らない。何度傷を作ったのかも、解らない。それでも、休む事無くその体を動かして。そうして、いつの間にか―――――
その心は、“孤独”に凍えていた。
そう、
――――――独りになるには、あまりに幼過ぎた。
Re/call 〜Emerald〜
第陸話『一夜』
「まぁ、その子の現状で考えられる点で挙げられるとすればぁ……ストックホルム症候群ですかねぇ」
“待ち時間”の間、手袋とゴーグルを身に付けて作業中の璃麻さんは、いつものようにぺらぺらと口を達者に動かしていた。まぁ、飽きるような話でも無いし、知らないことを覚える、というのはある種の快感だ。
「すとっくほるむ症候群、ですか……」
この言葉に聞き覚えなど無い。まぁ、最新技術やら西洋学の知識なんて私には無縁なものだし、当然といえば当然なのだが。それにしても、ストックホルムと聞くと、金管楽器の1つ、ホルン辺りの亜種を想像してしまう。どうしたものか。
璃麻さんの話は、作業の休み休みに続く。
「一種の心理的な変化のことですよぉ。んーっとぉ……聞いた事ありません?何日も続いてる強盗事件とかで、いつの間にか人質の方々は犯人グループと触れ合って、仲良くなっちゃうーっていうの」
「乏しくも……聞いたことはあります」
本当に乏しく、だが。確か、昔の話で。米国の何たら州で、とある犯人グループに拉致された女性が、何日も経過した後……その犯人グループの仲間入りしてしまった、とかいう話を聞いたことがある。
璃麻さんはその解答に、満足げな笑みを浮かべた。作業台に顔を向け直してから、また喋り出す。
「少女を殺せなかった犯人も不思議だとは思いますけどねぇ。ってことはぁ、その子は両親を殺した犯人と一緒に居る内に……その犯人に激しく恋慕しちゃったぁ、ってわけですよぉ」
其処まで話し終えて。璃麻さんの腕が、ぴたりと止まる。
そして、私の方に体ごと向き、飛び切りの笑顔で告げる。
「デジヴァイスのカスタム終わりましたぁ!これでもう一心同体、僕達は立派なデジモンハンターチームですよぉ♪」
《数刻前》
緊張、とは違う。恐らくは、戦慄。
攻撃が終わり、気温は上昇している。無論、私の額からも……汗が、滲んではいる。だが。首筋を伝う雫は、“明らかに”額の汗とは違うものだ。冷たい。何処までも冷たく感じる、雫。これが……冷汗、だろうか。
崩れたビルは、炎に加えて瓦礫の落下時に発生する摩擦熱が加わり、近付くだけで焼け死にそうだ。
そんな中で、私が知ったもの。
揺ぎ無い“恐怖”。縛り付けて来る“恐怖”。
初めて知ることとなった感情は。とても冷たい、凍り付く深海に突き放されたかのような、底の知れない震え上がる感情。身体は……動かないし、動けない。嘗て、ホラー映画として有名な“チャイルド・プレイ”を見てみんなが震えている中、『怖い』と言う感情が解らない、と吐露した私は、友達数人から厭きるほどの罵詈讒謗を言われ、説明を聞かされたことがあるが……成る程、これほどのモノ、とは。思わなんだ。
「まっ……嫌だってんなら強制はしませんけど」
何時もの様な舌足らずの口調は何処へ行ったのか。何時もの様な温盛を帯びた声色は何処へ行ったのか。璃麻さんはただ、機械的に……まるで独り言のように淡々と呟く。
一緒に組んで、戦う。璃麻さんの頼みか、それともただの脅迫か、或いはただの冗談か。不敵に笑う璃麻さん。彼女の笑みは、底が見えない。彼女の真意が、私には全く解らない。
終わり無き深淵。彼女の瞳は、それを携えているようで。正直、今まで彼女に抱いていたものは全て一掃された感じだ。良い面も。悪い面も。何もかも、全て。私はそうすることで、新たなる璃麻さんと面と向くことが出来る。
統計的に考えてみれば、彼女と組み敵を戦うということは。あの強大な力が味方側に来る、と言うことになる。
医者智者福者、人中の騏驥と喩えるのは強ち大袈裟でもなく。璃麻さんは、私から見ても解るほどの有益な人物だ。これは私の勘でしか無いのだが。恐らく、戦闘に関する発想能力、そして判断力。此処ら辺の数値はずば抜けて高いと予測がつく。
其れほどまでの“智”に加え、決定的となるあの“力”。
あの蒼い鋼の竜……ダークドラモン、と言ったか。カラテンモンを巻き込んだ上で、廃墟とは言えビルを丸々1つ灰塵にさせたあの破壊力。今の私とBアグモンに、あれを防いだり弾いたりする力は無い。きっと、私達を狩ることなんて……赤子の腕を捻るよりも簡単だ。このコンビが、敵に回るのは正直……というか、絶対に御免だ。無論、私達の味方側に着いてくれたからといって、何時裏切られるかだなんて解ったものではないが。
璃麻さん達は、強い――――――
しかし、私達は弱い――――――
現状において解ることは、それだけ。
弱い。そう、私達は弱い。確かに、ボアモンやドクグモンといった人外の敵を相手に、勝利を手にした。あれは人間に倒せるものではない。それを、私達は倒した。故、私達は強い。
否――――それは、人間から視たものに過ぎない。デジモンという視野から私達を視れば――――単なる子供の喧嘩にしか見えないのかもしれない。弱い者同士の争い。まるで、気にもならないかのような。
「さて、と。決まりましたか?」
信じて良いのか解らない。でも、頼りにしたい。
Bアグモンは、何と言うだろうか。私はまだ、彼のことを把握し切れていない。彼は賛同してくれるのか、それとも否、か。数日間で他人の性格全てを把握することなど出来るはずも無い。
でも――――――
「私達は――――貴女達と組みます」
私の声帯は。彼の否応を確認することすらせずに、賛同の言葉を放つ。璃麻さんの表情に……温盛の彩が混じり始める。最終的には、私が知っていた璃麻さんの表情に戻ってくれた。
「はぁ、良かったぁ……美音ちゃん達だけは潰したくなかったんですよ……」
…………どうやら。
“YES”と言うより他、私達に選択肢は無かったらしい。
細々とした理由なんて、考え付かなかった。
《現在》
「進化の自在化、通信機能、マップ機能と……後、収容機能を追加しときましたからねぇ」
私に返されたデジヴァイスは、少しだけ体積が付け加えられていた。ご丁寧に、握るグリップとは干渉していない。璃麻さんの説明が長く続いたが、少ししか理解できなかった。というか、理解しようとしても出来ない。ただ、デジヴァイスを使って実際に璃麻さんと遠方からお話が出来たのは、すごいと思った。いや、別に感情的なものを考えてみても無駄だとは解っているのだけれど。
「今日はもう……疲れてるでしょ?泊まってってくださいよ」
唐突に―――――可笑しなことを云うものだ。
私を疲れさせたのは、貴女が原因であろうに―――否、だからこそ――――休ませるとでもいうのか。
それこそが否、彼女の性格からしてそれは考えにくい回答であることを自覚する。璃麻さんはこれでもかなり無鉄砲で尚且つ自己中心的な部分が多く見受けられる(少なくとも、私に対しては)。
まぁ、考えても仕方の無いことか。寝ている間に何かされる……ということは、あまり考えられない。それは数刻前の話からも想定出来る事であり、今は彼女の言葉に甘えさせてもらうのがいいかもしれない。
いや、そういうわけにもいかないか。
Bアグモンは家で私の帰りを待っている。一応、缶詰食品を腹が減った時に食すようには念押してあるが……心配させる、というのは宜しくない。さて、どうするか……と考えていると、璃麻さんがまたもや言い放った。
「僕のパートナーをみおちゃん家まで往かせますから、安心してくださいぃ」
……どこまでも手回しが良いのは流石、とでも言うべきか。
パートナー……ダークドラモン。あのデジモンに任せてよいのであろうか?仮にも、Bアグモンを食ったりなどはしないとは思うが……もやもやとした不安はとても拭いきれない。何処まで信じてよいのか、何処から疑わねばならぬのか。私には、それが解らない。
「ささっ!寝ましょぉ寝ましょぉ!」
「えっ……あ、あの……」
解らない、解らないが――――
その笑みに、“帰らないでほしい”という懇願の色が……視えた気がした。何故か?幾ら考えたって、結局は解らない。人の心なんて、所詮そんなものだ。解らない。どんな気持ちで、どんな思いで、どんな考えで人と接しているかだなんて……その人以外には、誰にも解らないものなのだと思う。
「…………はい」
何時の間にか、私は自然と承諾をしていた。
自分でも、何故かが解らない。何故かは解らないが―――
「……ありがとう……ございますぅ!」
とても嬉しそうに、にっかりと笑う璃麻さんの前では。
そんなこと、どうでもいいと思った。
兎にも角にも……今日は、疲れている。へとへと、とまではいかないが。統計的判断からして、今の私の体には早急な睡眠時間の確保が必要であることが理解る。嬉しそうにする璃麻さんに手を引かれながら、私は寝室へと案内された。
《夜》
「……遅いな、美音」
人間は不思議なものを視るのだな、と思いながら、Bアグモンは乱暴に切り裂いた缶詰の中に詰っているコンビーフを食べ、少し古っぽく、少しでも叩けば壊れそうなテレビの画面をぼんやりと見ていた。
どのボタンを押しても、少し違う放送の仕方をしているだけで、内容はほぼ同じ。並んで建つ2本の細長い建物に、翼の生えた……喩えるなら、プテラノモンみたいな形の機械が突っ込んで。それを暫く放って置いたら、建物が上半分から崩れ落ちる。
「……助けなくていいのか?」
これはデジモンである自分にも、早急の事態であるということがわかる。恐らく、早く助け出さねば建物内に居る人達は瓦礫の餌食になってしまう。人間側の味方であるデジモンとして、彼らを是非とも助けたいものだ。
そう考えて、テレビの中に入ろうとしたが。画面はガラス状のカバーでかっちりとガードされていて、絶対に入れない。外し方も解らないし、画面を壊したらきっと美音だって怒り狂うことであろう。
仕方あるまい。Bアグモンは、焦る気持ちを抑えて、再びテレビの前に居座る。被害は、増える一方だ。
「くそっ……俺は無力だ……」
「全くね」
「?!?!??!?!?」
有り得ない声がした。有り得てはいけない声がした。何処から来た者かは解らないが……それは、有り得てはいけない声だった。そう、それというのも―――――――
この家の中にいるのは、Bアグモンのみ。
「くっ……!!誰だ?!」
思考を変えよ。態勢を変えよ。心を変えよ。
敵だ。敵を迎え撃て!我こそは敵を討つための刀である!そう、Bアグモンは……戦うための、美音の剣である。
体を瞬時に身構える。静が動へと変わる、爆発的瞬間。身構えたその直後には既に畳を蹴り、テーブルを踏み越えて……テレビの電源を消し、部屋の電気を消し、一瞬で窓を開けて閉め、庭まで出た。
敵からの攻撃は……無い。
「姿を現せ!」
爪が震える。牙が震える。体が震える。武者震い。
進化できない今の自分に、果たしてどれだけの戦闘能力があるだろうか。そんなこと、考えるまでも無い。美音の自宅は我らが聖域だ。踏み犯そうとするものは何であれ徹底的に排除してやる。体中の血液が更なる速度で循環し、いよいよ体のスペックは戦闘用に書き換えられる。
「ここよ……」
声がしたのは、数刻後の事だった。
Bアグモンは身構える。声からして女性、或いは雌。それがどうした。手加減はしない。喩え鬼神が相手であろうと、我は倒れぬ。我は美音聖上を御守りする一振りの刃也。我は如何なる敵にも決して折れぬ、鋼鉄の刃也。我こそは……黒竜、ブラックアグモン!!
目の前に現われたのは……武装を施した、自らと同じ恐竜型。蒼い迷彩柄の体色が、夜光を浴びても尚、闇に溶け込む。その両腕で、無骨にして絶対的火力兵器の一つ、マシンガンを携える。
厄介な敵だな、とBアグモンは舌打ちをした。視難い体の彩に加え、速射系飛び道具。自分は口から炎を吐くが、命中精度は向こう側の得物に比べ、遥かに劣っている。ならば……機動力はどうか。相手は色々と装備を身に纏っているが、こちらは丸裸だ。機動力で翻弄し、近付いて一気にゼロ距離攻撃を行えば、或いは…………
「覚悟っ!!!」
Bアグモンは、脚幅を不規則にしながら、一気に駆け出した。敵の姿を見逃すわけにはいかない。此処で仕留めねば、美音の聖域はどうなることか。Bアグモンは、ある程度まで近付いて……身を、沈めた。
一撃、必殺!
「!」
敵側デジモンの驚いた顔を目に焼き付ける。
そのまま、跳躍した。前進をバネにした跳躍は彼に通常よりも大きな跳躍力を与え、大きく跳ぶ事を許した。思い浮かべよ、跳躍した彼を。まるで、月夜に飛び交う蝙蝠ではないか!
「必殺……」
体を、空宙で前転させる。両腕を思い切りクロスし、そのまま敵に向かう。幻惑した疾走に加え、運動能力を損なう事無く跳躍し、さらに宙にて彼は回る。そこから放たれる窮極の一撃を避けきれる相手などいるであろうか?喩え火機を使って居るにせよ、彼に弾が当たらない……そのようなプレッシャーを相手に叩き込む。
爪を……閃かせろ!
「ヒルノツ―――」
「DCDボム……」
「キェぁぁあああああ?!!?!?」
Bアグモンの窮極の一閃は、
敵の投げた一つの手榴弾を、
空中でズバリと切り裂き、
切られた手榴弾は当然の如く、
爆発した。
「…………」
敵側デジモンに抱きかかえられ、連れて行かれたなどと。
気絶したBアグモンが、どうして知れ様か。
《月夜》
「……」
璃麻さんの寝巻きは、私には少し大きかった。その分、通気性は良かった。璃麻さんと一緒のベッドに入って、彼女に抱きつかれて、私は眠りに着こうとしている。毛布は少し薄い気がした。しかし、璃麻さんに抱き付かれているため、十分に暖かかった。
彼女の体が微かに震えていることに気付いたのは、彼女が寝始めて20〜30分した頃のこと。何故かは解らない。私には、解らない。それでも、彼女は震えている。必死に私に、しがみ付いている。この震えは多分……“怯え”なのかも知れない。震えている璃麻さんの、筋肉質ながらも華奢な体は、驚くほど小さく見えた。彼女の寝顔は、何かに怯えているかのように見えた。それが、こう考えるようになった要因だ。
微笑みの下に、彼女は何を隠しているのだろう。あの、屈託のない微笑みは……偽りなのだろうか。だとしたら、哀し過ぎないだろうか?辛いことすらも、あの微笑の下に隠しているのだろうか?自分自身の本当の感情を、晒すことすら出来ずに――――――彼女は、笑っているのだろうか?
解らない。私には解らない。
だから、これは私の勝手な思い込みなのかもしれない。
璃麻さんの、太陽のような微笑みと、氷のような凄惨な笑みと、そして……怯えているかのような、寝顔。
どれが本物の璃麻さんの顔なのか、見当すら付かない。何を信じればいいのだろう。何を、思えばいいのだろう。
月夜に照らされた彼女の顔。
その目じりに浮かんでいる、大粒の雫を。
私は、指で拭ってあげた。