「もくひょう、かくにん」


『幼い少女が、座りながら双眸鏡で何かを覗いている』、という一文で連想できる状況というのは、数多くあるものだ。しかし、それは数多くあるのだが――――大抵の人間が出す答えは、殆んど似通ったようなものばかりである。
例えば――――『据わっている場所が高層ビルの屋上の手摺の上、手にした双眼鏡で覗くものは地を踏み締め歩く人々の中に紛れた、1人の長い黒髪の少女』。このような解答を出す人間など、余程探さなければ居るようなものでも無い。


「…………にんむ、かくにん。『ホカク』、あるいは『マッサツ』」

「…………ギィ……」


感情の一切を見せることも無く、少女が無表情のまま、淡々と呟く。発せられた、その穏やかではない単語。
少女の隣には――――まるで性質の悪い冗談のように、一体の“異形”が居座っている。その禍々しい姿と裏腹に、まるで小動物のように発せられた、短い鳴き声は――――あまりにも、滑稽だ。
不意に、屋上へと通じる扉がキィィ、と甲高い音を発して開いた。開くと同時に聞こえてくるものは、図太い男の、欠伸でもするかのような間抜けな声。少女も異形も、同時に振り向いた。そこに――――欠伸をしながら屋上へと出てきた、立派なスーツを丁寧に着こなした1人の中年の男の姿を捕らえる。


「……なっ――――」


ややあって、男は表情を凍り付かせた。原因となるものは、少女と、異形。其処に居るはずの無い、ある筈の無い怪異なのであろう。その男の視線は――――少女と異形が居る方角に向けられている、筈だった。


「っ!?!」


その視線の先に居る筈の怪異は――――
まるで初めから何も無かったかのように、消えていた。
何故、何が。何が起こった。


「……こんらんいんし、マッショウ」

「ガァッ」

「……っ……ひ、ぎぃ……!!」


男は結局、何一つ理解し得るものを掴めないまま――――身体の内蔵物をぶちゃり、という惨い音と共に周囲にぶち撒いて。単なる、肉塊へと変わり果てた。


瞬時に回りこみ、男を背後から叩き潰した異形は。その背に少女を乗せながら、継ぎ接ぎだらけの翼を羽撃き始める。ぼぁっ、と周囲に強烈な風を起こしてその異形は飛立った。異形の背にしがみ付く少女が、先程まで自分らの居た場を見下ろす。


血と、肉と、骨と、臓腑の。
穢らわしい、紅い華が――――1輪だけ、咲いていた。





Re/call 〜Emerald〜
第拾参話 『闇の刺客』





「うぁっ……!?美音どうしたの!?ボロボロじゃんっ……」


……やれやれ。
あの戦闘後、琉芽さんの家(結局、琉芽さんの家は隣町にあった)で一泊してから家に帰って。その翌日――――つまりは、今日。学校に来てみれば第一声がこれか。せめて最初は“おはよう”、とでも言ってもらいたかったものなのだが……まぁ、仕方ないか。
悠玖やその他諸々に同じようなことを言われる。私は、車に撥ねられた、等となるべくばれない様な嘘をついて、いつの間にか移動されている自分の席へと着く。机の中を見ると、欠席していた間に配られたのであろうプリントが沢山入っており、全部に目を通すのはかなりの時間を要した。来月の給食の献立表に、好きなメニューが出る日だけ青のマーカーで線を引いてから……ぐだり、と机に突っ伏す。布団でぐったりしたいところだが、学校にそんなモノは無い。結局、堅い机の上で腕枕を組んで寝ることになる。


やや間を置いて、授業開始のチャイムが鳴り響く。
先生が来る、と云うことが頭の中に思い浮かびながらも……何だか、何もする気が起きない。だんだんと、意識が朦朧としてくるのが理解る。それほどまでに、眠い。この時期の薄ら寒い気温とぽかぽかと暖かい陽射の絶妙な混ぜ加減は、“眠気”と言う理不尽で抗うことの出来ぬ絶望的な脅威を生み出すのだ。


「ねぇ、この前の宿題って全部終わってる……?」

「……ええ」

「……あのさぁ……え、えぇっと……」

「……どうぞ。でも、書き写す時はきちんと覚えなければ駄目ですよ?…………ふぁぁ……」

「ありがとっ!」


見ずともにっこりと笑っているのであろうことが理解る、悠玖の嬉しそうな声色。突っ伏した状態のまま机の中を手探りで漁り、算数のノートを隣に座っている悠玖に渡す。最近となっては教室の男子、女子の割合が平等でなく、我がクラスでは女子の方が2人多い。そのため、教室の座席配置は男女一組ずつが机を寄せ合って3列に並んでいるのだが、3列目の一番後ろの席2つだけ、どちらも女子が座ることとなる。欠席中に行った席替えで、偶然私と悠玖がそこで隣り合うこととなったらしい。
1年生のときから算数が苦手な悠玖。前からノートを貸し出すことは多かったが、隣同士になればそれが更に便利になった。


言葉の最後に漏れた欠伸を手で押さえながら、改めて熟睡体制へ。授業?そんなもの、知ったことか。この眠気に抗う等……莫迦のやることだ。大人しく身を委ねる、という選択肢こそが利口である。
まぁ、それ以前に。
予習を済ませてしまえば、どうせ授業など睡眠時間、或いは読書時間のようなものになってしまうわけであって。
今日の授業構成に目立った点は特に無く、テストの類も一切無い。読む本も特に持って来なかったから、今日は暫く眠ることにするか。飽きたらいつものように早退しよう。Bアグモンと家に居る方がまだ有意義である。


『お前っ、が死……ぬ……だ、と?……認め、る……かよっ……!!』


ふと、Bアグモン……否、Bグレイモンの吐いた言葉が脳裏を過ぎる。そして、思い出したように包帯を巻かれた傷口が、しくしくと痛み出す。気になる痛みではない。でも、何故かその痛みは暫く消えそうに無い、と。勘に似たものが、そう告げている。


死ぬ。それはつまり、五感及び意識の消滅と身体機能の永久停止。本人には何も残らず、周りの者には死体と言う、動くことの無い腐り始める肉塊だけが残される。死ぬ。それはつまり――――己という存在の、完全なる否定。
私はあの時、死と言うモノに限り無く近付いていた。
私達の戦い、それは死と隣り合ったものであって。死ぬかもしれない、という状況下で相手と戦っているのだ。


「…………」


死んでしまったら。戦いに負けてしまったら。
こうして、悠玖の隣に居る事が出来ない。そして、悠玖と一緒に居た時間の一切が、消却される。
いつか……そんな日が来てしまうのであろうか。正直言って、今の私に最後まで戦い抜ける自信が無い。死ぬ時は布団の上で大往生、というのを望んでいたのだが。デジモンと言う脅威と関わった今、何故だかそうやって死ねる、という未来が霞んで見えてしまう。


この戦いは、何時まで続くものなのだろうか。
この戦いは、何時になったら終わるのだろうか。
終わった先に――――私と言う存在は、残っているのか。
そんなことをぼんやりと考えながら、私は眠りに着く。


「……美音……?」


悠玖の不安げな声が、聞こえた。
その意味を理解する気力を、睡魔に囚われた私は持ち合わせてなど居なかった。




《同刻》




「……」


距離にして、500m程。登った木から無数に生える、枝と葉でその姿を紛らしながら。少女は無機質な表情を浮かべたまま、“目標”を双眼鏡で覗き込むことを止めない。体重を木から生える太い枝に預けながら、凝ィッ、と覗き続ける。きっと、観察者と言うよりも――――暗殺者、と言った方が似合うのかもしれない。


静寂、とも言えるその場に聴こえるモノは。吹く風に揺れる枝の音と。その枝に留まる、小鳥の囀りと。少女と異形の息遣いだけ。耳を澄ませば、それらの一つ一つがクリアに聞き取れる。
暫くして、少女は動き出す。
手に握った、小さな機械――――漆黒のデジヴァイス。その画面が薄らと光を放ち始める。淡く、優しく暖かな光とは真逆の――――闇のように昏い、無慈悲で冷め切った光。それに同調するかの様に、異形の身体も全く同じ光を放ち始める。


「……グゥ」

「……?」


変化が止まったのは、異形が唸り声を出した途端。一切の光が治まる。何ら変化を起こさないままの異形が、少女の見つめる方向とは全く違う場所、一点を見捉えている。不思議そうな表情を浮かべつつも、少女は異形と同じ方向へと視線を向ける。
ややあって、異形の見つめる先、そこにあるものに気付いた少女はまるで思い出すかのように、その幼い貌に無邪気で、可憐で、暖かで――――何処かが絶望的なまでに歪み狂った、亀裂の様な微笑みを浮かべた。


「もくひょう、2つめの“とらぺぞへどろん”をかくにん」


予め監視していたものと、たった今偶然にも発見したもの。2つの“目標”を捉えた少女は、たった今見つけたものの監視を異形に任せ、再び最初の目標を捉え直そうとして――――行動の変化に、気付く。暫くの間、それの行動の変化を見逃すことなく眺めていた少女だったが、やがてある種の確信を持ったらしく、監視することを止めた。そのまま異形の背に、ひしっ……としがみ付く。異形も同じく目標を監視することを止め、一気にその場から跳躍した。
ビュォンッ、という、鋭い空気を切り裂く音。それと同時に踏み台とされた枝を中心に、木の全体が激しく揺れる。それは、一瞬の出来事。彼女らの存在には、誰も気付かない。誰も気付けない。


狩人の刃が、静かに獲物に迫りつつある――――




《数刻後》




窓際を、ぼーっと見ている。
一科目毎の授業時間が私達高学年よりも10分短く区切られている低学年達が、校庭で元気にはしゃぎ回っている。今を3時間目と考えて、その時間差は30分程度か。私立であるが故、ハイレベルな授業……と親たちから高く評されているわりに、この学校は随分とゆとりを持って授業を進めているものだ。


…………暇だ。
2時間近く眠っていた。夢を見ることも無ければ、起こされることも無く。目を覚ましてみれば、先ず初めに涎を垂らしそうで垂らさない悠玖の寝顔が見えた。そして、一間置いてから先生の声が聞こえる。体を起こすのが面倒なので、その状態のままで状況を把握した。
現在の授業は国語。担当である村山先生は、この年、遂に孫が生まれたと言う、お婆さん先生だ。先生の、国語の教科書に記載された文章の音読は非常に眠気を誘う。寝る前に、親等に本を読んでもらうと言う状況下に近いのかもしれない。しかし、先程まで眠っていた私としては、全く眠気を感じずにいるわけで。


聞き流しているような状態なのであまりよくは解らないのだが、先生が今読んでいるのは教科書の第三章に載っている『注文の多い料理店』の一場面か。確証は無いが、どうもそんな感じがする。予習した範囲なので、これ以上勉強しても大して意味を成さない。
…………。


「先生」

「何でしょう、蘭咲さん?」


重く感じる体をのろりと起こし、私は挙手しながら先生に声を掛ける。丁度、一段落を綺麗に読み終えたらしい先生は、皺だらけの貌に優しげな笑みを浮かべながら私の顔を見つめる。


「退屈なので早退します」

「……そう、ですか」


先生は残念そうな顔を浮かべながらも、承諾してくれた。今日の授業構成には宿題が出そうなものは是と言って、無い。鞄の中に筆入れと財布、携帯電話を入れて私は席を立った。いつものことだ。特にやる事も無く、学校に居る意味が無くなったところで、帰る。
最初は色々な先生に何だかんだと言われていたが――――今ではもう、誰も何も言ってこない。正直、見限られたのかとも思うのだが、まぁ別に気にするようなことでもない。一応成績は優秀なんだし。
お昼ご飯はBアグモンと一緒に食べよう。


「蘭咲さん……学校は、嫌いですか?」

「いいえ。嫌いなら最初から来ませんよ」


教室に出る際、先生にそんなことを聞かれながら――――私は、教室を後にした。




「……」


吹き抜ける冷風が傷に響くのか、学校に居る時よりもずっと身体が重く感じる。一応は大怪我だったのだ。まぁ無茶はするな、と言うことなのであろう。最も、これからの戦いで今回以上の怪我をしないという根拠は何処にも無い。恐らく……戦いが終わるまでは無茶をしなければならないのであろう。
……流石に先が思いやられる。


「…………はぁ」


一人で莫迦みたく溜息を付く。
のろのろと歩く。怪我をしていると改めて認識してからは、家までの道程が異様に長く感じる。億劫だ。何処かにタクシーでも置いてないものだろうか。……流石にこんな真昼間から小学生一人がタクシーに乗る、という風景は浮きすぎているか。うぅむ……。
そんなことを思いながら、いつもの通り道にある公園を通過しようとして。何気なく、公園の内部を覗いて。


「……御巫、さん……?」


揺れないブランコに静かに座る御巫さんを、見つけたんだった。




「こんにちは」

「……っ!?」

「……ごめんなさい、驚かせてしまいましたね」


御巫月愛。彼女を知ったのは4年前、つまりは小学3年生の時。それだと言うのに、殆んど話し合った覚えは無い。まぁ……彼女が学校に来ること自体、非常に稀なことではあるのだが。
私が軽く会釈すると、暫く御巫さんは黙り込んでいた。しかし、気付いたように私に問いかけてくる。


「……美音ちゃん……学校は…………?」

「あぁ……早退しました」

「……具合、悪いの?」

「いえ、単に退屈になったからですよ」


そう答えた途端に、不安げな表情を作り出す御巫さん。
彼女の浮かべる表情、という題目で真っ先に思い浮かぶのはこのような表情であり、一番思い浮かべ難いのは微笑んだ時の表情だ。蒼い瞳を少しだけ潤ませながら、御巫さんは小さな声で告げる。
……何だろう。寒気が走った。


「……ちゃんと、行かなきゃ駄目だよ……私みたいになっちゃうから……」

「……?」


涙。
目尻から、小粒の涙をぽろぽろと溢しながら。
彼女は、


告げる。


「独りに……なっちゃう、から……」


――――この時。
何故か、何故かは知らない……知らない、はずなのに。

針みたく鋭利で無情で冷徹で残酷で突き刺さるかのように冷たくて冷た過ぎて寒さなんてモノで表現し切れない凍り付く様な悪寒とも戦慄とも呼べぬ僅かに微かに致命的に絶望的に歪んだ吐き気を催す――――“何か”が脳裏を駆け巡った。

一瞬だけ、心臓が止まったと思う。五感の全てがその機能をまるで停電でもするかのように落とし、心肺機能もピタリと止まって。数刻経って、たった一つ動いていた第六感が断絶された全ての機能を繋ぎ合せ、まるで思い出したかのように身体の時間がゆっくりと動き出す。
込み上げてきた胃液を、喉で押さえ込む。噴出して来た冷汗を、手で拭う。がくがくと震える膝を、しゃがんで押さえ込む。ブランコから立ち上がって、不安げに私に近寄ろうとする御巫さんに……大丈夫だ、と手で合図する。

そうだ。この前感じた彼女への違和感。それは――――圧倒的な、
の臭い。濃密なそれが、御巫さんから放たれている。決して口には出せないが……彼女は、何かがおかしい。歪んでいる。狂っている。
失礼とは思いながらも彼女を怪しみながら息を荒げる私に対し、当の御巫さんはついに駆け寄ってしゃがみ込んだ私の傍らまで近付いて……やはり、涙を流す。


「ごめんね……ごめん、ね……私の……せいで」

「……えっ?あっ――――」


彼女が何を言っているのか、さっぱりわからない。
解からないまま、そっと。手を、握られる。
暖かいのに……冷たく感じる。
何故か、何故かは解からない。心臓が激しく波打ち始めたのも、傷口がまるで開いたかのように激しく痛み出したのも、脳裏に何か懐かしい光景が一瞬だけ駆け巡ったのも、

デジヴァイスが、淡く輝きだしたのも――――




私は、知る。


「……っ」


御巫さんの、腰。
隠れるかのように付けられたデジヴァイスが、輝きだしたのを。
そして、私達の前方に――――




「……もくひょう……どうじかくにん。じょうきょうはあく、こうどうせんたく……かくてい。これより、『ホカク』にうつる」

「ガァッ」


見ずとも解かる、狩人が居ることを。




「〜〜〜〜っ!」

「あっ……!」


思考が行動を結論付けた時には、もう既に身体が動いていた。
傷口の激しい痛みを無視して、御巫さんの手を引きながら疾る。敵の姿を確認している暇なんて無い。幸いか、御巫さんも併せて走り出してくれたので、そこまで激しい負担は無い。思い切り地を蹴って、全速力で公園から抜け出す。
勿論、向こう側はそれを見逃してくれる訳ではない。


「……ついせき、かいし」

「ギィ」


別に怒鳴っているわけでもないのに、足音等の雑音をすり抜けて聞こえてくるそいつらの声。それから少し間を置いて、ダスダスッ、とまるで肉塊を地に叩き付けるかの様な大きい足音が雑音に雑ざり聴こえてくる。意図的なのかは解からないが、それはある一定の距離(音での推測、なのだが)を保ったまま追跡してくる。じわじわと体力を削って追い詰めようとでも言うのか。冗談じゃない。家まで走り逃げてBアグモンに撃退してもらうしかないか。


「み、おん……ちゃんっ……・」

「大丈夫です……っ!暫く走ることになりますが耐えてください!」


……くそっ!
我乍ら不甲斐無い。真逆、あんな近付かれるまで敵に気付けなかったとは!そりゃあ、御巫さんと偶然にも出会ってから色々と身体の調子が変になったのもあるけれど。それとこれとでは恐らく話が別。いや、敵が近かったからあのようないことになっていたのかもしれない。自身の曖昧さに対する怒りが込み上げる。
そして、何よりの失敗は……御巫さんを巻き込んでしまったことだ……!今は私自身のことなんてどうでもいい。御巫さんを守ることだけを専念する。


…………『彼女の腰に、デジヴァイスがあった』


…………『「目標、同時確認」』


街中。道往く人々を擦り抜けながら走っている最中、思考回路に先程見た光景と、敵の吐いた台詞が強く思い浮かぶ。たった今、思い浮かぶまでは逃げることだけに専念していて全く無視していたが……
つまり、それは……どういうことなのだろうか。……えぇい、落ち着け。ちゃんと考えろ、考えろよ私……。
デジヴァイスは、テイマーが持つと云う小型機器。そして、『同時』、と言うのは私達……つまり、蘭咲美音と御巫月愛のこと。その場にいたのは、私達2人だけなのだから。

結論。御巫さんもテイマーであり、敵はそのテイマーを狙っている、と言うことか。全く……面倒なことだ。とりあえず、此処まで整理出来れば他のことは後回しでもいい。思考回路を、一旦停止させる。気付けば、御巫さんの息も大分上がってきてしまっている。これは……急がなければ危ないな。
気が付けば、背後からはもう音がしていない……真逆、それで逃げ切れたと思える筈も無いが。一気にトドメを刺さない、というのはこちらからしてみれば幸運なことであるが、それでも性質が悪いと忌みたくなってしまう。いや、だから考えても仕方が無い。今は逃げることだけを考え――――


「……!美音ちゃん……」

「!?」


前方。赤のランプが点灯している、信号機のある道路。
しまった……赤信号か、渡れない!


「ちぃっ!!」


あまり曲がったことの無い通路へ曲がり、あまり来たことの無い場所を走る。こうなったらもう、只管に逃げ回るしかない。いや……隠れた方が良いだろうか?御巫さんの体力のことを考えれば……止むを得ない。私自身も相当息切れしてしまっているし、激痛から来る呻き声を、時々漏らしている。

闇雲に左右に逃げ回って。
果てに辿り着いた場所は、嘗て璃麻さんと一緒に来た廃墟郡。何かを考えている暇は無い。郡の中でも殆んど目立たないような建物を見つけ、ガラスが割れてしまっている自動ドアから内部に入り、通路を抜け、上階へ向かう階段の隅に身を隠す。御巫さんは、足らなくなった酸素を求めて激しく呼吸を繰り返していた。体中びっしりと纏わり付いている汗を、拭ってあげる。私の方は、というと……呼吸こそ問題は無いのであろうが、傷口が幾つか開いてしまったらしく、包帯のあちこちに真新しい血を滲ませている。激痛で失いそうになる意識を必死に呼び戻しながら、身を潜める。

さて、これからどうするか……。
願わくば、このまま見つからずに終わってほしいのだが。




《同刻》




少女と異形は、あえて追うことを断念した。
人が多過ぎる場所を走って行った目標2体。流石に、異形を目撃した全ての人間を殺すと言うのは無理がある。上空へと飛翔、何処かの建物の屋上に着地する。

目標を逃したからと言って、焦ることは無い。否、焦る必要が無い。少女は、思い出すかのようにゆっくりとした動作でデジヴァイスを見つめる。画面が一瞬だけ真紅の光を放ち、次の瞬間にはまるで何も無かったかのように治まる。それを確認した少女は、画面を覗き込んだ。

点滅する光点は二つ分。ほぼ重なり合っているところを見れば、寄り添っていることが容易に想像出来る。
少し距離は離れているが、十数分で追いつき、見つけることの出来る距離。少女は、異形の背に跨りながら画面を見つめ続け、静かに微笑んだ。無邪気な子供が浮かべるソレとはかけ離れた、獲物を追い詰めた獣の嘲笑。


「……グァ!」


異形が羽撃き、飛翔する。
……その終始。果たして、“その者達の存在”に、少女と異形は気付いていただろうか。




「……ちっ」

「…………乗れ。一気に飛ばす」

「ああ……!」


目標を追い詰める少女達を追う、異形たる影。
薄ら寒気を感じさせる、一陣の風が吹いた。
風を裂いて――――彼らは、飛翔する。





Back



Next→“闇の中で”