………、……。

 

海を見ていることが、大好きだった。

 

 

限り無く優しく、限り無く穏やかに揺れる波。

波の音が、子守唄のようにも聞こえて。

潮の臭いは、綺麗な風に運ばれて。

 

 

足を浸す冷たい水が、どこか心地良く。

月光に照らされる海は、何処までも幻想的。

 

 

幾ら歩いても疲れない、不思議なその場所で。

 

 

 

私は、また『それ』と出会う。

 

 

 

 

Re/call 〜Emerald〜

   第壱話 『出会い』

 

 

 

 

『――ざ、き、さん!』

 

 

…………。

 

 

『らっ、んっ、ざっ、きっ、さん!!!』

 

 

………っ!

 

 

「ランザキさん!!いい加減起きなさい!!」

 

 

先生の教科書によるチョップを受けた(と判断した)私は……皆の視線を浴びながら、ゆっくりと起き上がる。

時計の針が示している時刻は、15:40。6時間目の授業が終わる20分前だ。寝始めたのが、5時間目の終わる10分前、14:50だから……成る程、実に50分もの時刻を寝ていたことになる。誰も起こさないのが不思議だ。
そのまま、20分間の国語の授業を頭を空にしてやり過ごす。

 

 

「らっ、蘭咲、さんっ……あっ、あの…授業中に寝るのは…!」

 

 

授業が終わると、学級委員長の古河(こかわ)さんが、私に恐る恐る、といった口調で注意してきた。眼鏡の奥に見える眼は、明らかに怯えきっていた。何をそんなに怖がっているのかは知らないが、こちらに彼女を害すという気はない。私は、乱れた黒の長髪を指で掬いながら、適当に相打つことを決める。少しだけ、髪は湿っていた。寝汗、だろうか。

 

 

「この時期は眠くなるでしょう?眠い時は素直に眠らないと、体に毒ですよ。」

 

 

「そっ、そぉじゃなくてぇっ……!」

 

 

「掃除、さっさと始めてしまいましょう」

 

 

戸惑う先生や古河さんの視線は、特に気になるモノでもない。私は、自分の机を運び、箒を持って掃除場所である中庭に向かって歩きだした。

 

 

この時期、10月は何かと忙しいことが多い。卒業するために、クラスの文集を書いたりだとか。私立の中学に行くために、色々と試験をしに行ったりだとか。

 

私―――――蘭咲 美音(らんざき みおん)は、海鈴学園小学校の6年生。6−Bクラスで、出席名簿28番、背丈順で整列すれば前から4番目で、クラスの文集係を務めている。眸が、生まれつき翡翠色なのはちょっとした自慢かもしれない。

あまり自覚は無いけど、周りからは変わった人、とよく言われる。まぁ、それは悪評、というわけでは無いらしく、周りで優しくしてくれている人は、中々多くて。兎にも角にも、『一般的』な生活を送っていた。

 

 

「にしても、美音さぁ……もう少し授業、聞いた方がいいと思うよ?」

 

 

クラスメイトで、掃除班の班長でもある悠玖(ゆうく)が、箒を掃きながら眉を顰めて私に忠告する。入学当初から、今までずっと同じクラスに当たっている悠玖に、このようなことを言われるのは2ヶ月に1回程度だ。この前記憶を辿って暗算(私は暗算は得意だ)してみて、理解った。

 

 

「大丈夫です。今日の範囲も全て予習済みですから」

 

 

「あのね……そーじゃなくてねぇ……」

 

 

掌で目を覆い、見ていられない、といった感じに溜息を吐く悠玖。毎度毎度、私のせいでこの様に疲れ果てる悠玖を見ると、いつも申し訳なく思えてくる。しかし、どのように対処すれば良いのか、私には解らない。

 

他人との『コミュニケーション』が苦手なのは、そのせいなのだろうか。私はどうも、『物事の考え方』が、他の人々とは少しズレてしまっている、らしい。

 

 

「そういや、今日の美音……何か、ずーっと魘されてたよ。」

 

 

「?」

 

 

悠玖が唐突に口を開いたのは、帰りの会で、順序から見れば最後となる先生の無駄話が始まってからだった。どの道、男子が五月蠅くて先生の声なんて聞こえやしない。隣に居る悠玖とのお喋りが、常日頃の習慣となっていた。

ただ……今回みたいなことを言われたのは、初めてだった。だからこそ、私は気になり、思わず首を傾げた。

 

 

「解らないの?」

 

 

解らない、というか、夢を見た記憶すらない。

ただ、寝汗を掻いていたことが気になった。季節が季節だけあって、今まで寝汗なんて掻くことは無かった。学校の制服が、やけにしっとりと肌に纏わりつく。体が、キンキンと冷える感じがした。

 

 

「夢を見た覚えが全くありません……」

 

 

「何だか、すごく苦しそうで。先生、寝息が落ち着いた頃にあんたの頭叩いたんだよ?」

 

 

………何故、そうなるのかはさておき。

過ぎたことではあるが、そのことは少し気になった。

帰りの挨拶中も、ずぅっと頭の中で離れなかった。

 

 

 

≪夕方≫

 

 

 

「んじゃね、美音!また明日ー!」

 

 

「はい。それでは。」

 

 

悠玖とは、途中で帰り道が分かれる。悠玖は、街の中へ。私は、学校から少し離れた場所にある広大な林へと、足を進める。私の家族であるお爺様とお婆様は、ずぅっとこの林の中に建っている古ぼけた木造の屋敷で暮らしている。もっとも、今は二人で旅行へ出掛けてしまって居ないのだけれど。

 

途中、商店街の安売りスーパーに立ち寄り、袋詰めのタイムサービスをしていたお野菜とお魚を、買えるだけ買っておいた。袋に、食材が傷まないように入れている時は、ご近所に住むおば様たちにぎゅうぎゅうと四方八方から押されて、息がとても苦しかった。

 

少し寒さを感じ始めてきた今の時期。

私は、舞い散り始めた枯葉を踏みながら、自分の家に向かう。歩いて、40分掛かる道のり。1年生の時は、正直辛い距離だったが、今となっては全く気にもならない距離である。

いつもより少ししっとりとした感触のする制服は、吹いてくる涼風に吹かれると、とても冷たく感じた。ふと、首筋に何かの違和感を感じた。それを確認しようと、手を伸ばした―――

その時だった。

 

 

………悪寒。

 

 

その制服の冷たさは、感触的な感想で述べれば別に、どうも感じることも無い。そう、感触的なモノ、ならばだ。

 

 

その悪寒は―――。

背骨ごと、背中をごっそりと『持って』行かれる。心臓に、冷たく『熱』された刃が突き刺さる。体の水分という水分が、『掻き混ぜ』られる。脳が、片っ端から『握り』潰される。そんなイメージを掻き立てる、酷く気色悪い悪寒。

 

 

私は思わず膝を突いて、嘔吐した。咳き込み、気持ち悪さと苦しさに思わず涙が浮かぶ。何とか立ち上がって、枯葉の上に広がるその汚物溜まりを、周辺の土を靴で抉って、上から大量にかけた。

 

 

「……、……不愉快、ですね」

 

 

気持ち、悪い。

この場から一刻も早く逃げ出して、家の中に入って、お風呂に入って、お汁粉を作って飲んで、早く寝たい。それなのに、体は言うことを聞いてくれない。第六感が『危ない』と警告する方向に、足が進んでいく。

 

私は、林道を逸れてぼうぼうと茂る草原の中に入り、走り出した。蟋蟀の鳴き声が、幾分心を落ち着かせてくれる。学校鞄と、しっかりと密封したお買い物袋は、置いていった。

 

 

 

≪異刻≫

 

 

 

数分、走り続けた。息は不思議と、切れない。

草原を抜けると、ガジュマルの木が沢山生えた場所に辿り着いた。まだ日は沈んでいないのに、とても薄暗い。

 

微かな腐臭。

 

しとり、と湿った空気は、僅かな腐臭をも、確実に鼻に伝わらせている。気分が悪い。しかし、体は意志とは全く違う行動をとる。操られる感覚。気持ち悪い。意思の全く通じない、毒に犯されたような体。

だから、だろうか。

 

 

目の前の『それ』に気付くのに、暫く時間が掛かった。

 

 

 

 

「………ギシャッ……ギシャシャシャ!」

 

 

 

緑色に輝く、9個の眼球。

黄色い仮面に、虎模様の対の角。

赤い、鬣。3方に割れ開く、顎。赤い舌。

紫と、黒の毛並みの表面。八本足。

 

 

巨大な、化け物蜘蛛。

 

 

『それ』の姿を視認すると同時、体に自由が戻る。気持ち悪さも、まるで蒸発するかのように消えた。首の後ろに、違和感を感じる。振り返ると、細く、銀色に輝く糸が、私の背後からシュルシュルと引いていくのが見えた。

再び、蜘蛛の方へと目を見やる。

その顎口の中へ、銀色の糸が引っ込んでいくのが理解った。私は、全てを理解する。理解した時には既に、足が動いていた。何だか、足はとても重く感じる。まるで、疲労がどっと押し寄せてきたかのような。

 

ふと、先ほどとは全く種類の違う悪寒がし、思わずそこから横に飛び退ける。足が、変な方向に曲がって気がするが……気にしている場合ではない。私は、地面に転がって……自分のいた場所を覗き、思わず冷汗を掻いた。

 

 

大量の、粘々とした糸状のもの。

それは、蜘蛛の顎口から直線状に放出されていた。まるで、カメレオンの舌。大量の糸状のものが、再び蜘蛛が蜘蛛の顎口へと吸い込まれる。地面の土や草が、まるで抉られるかのように糸に絡め取られたまま…顎口の中に、吸い込まれる。

 

 

現状況の素早い行動算出。

 

仮定 壱:化け物は、蜘蛛の形をしている。

仮定 弐:あの化け物は、口から糸を直線状に吐いた。

仮定 参:私の居る場所へ、糸を放出した。

 

以上の仮定から算出すべき結論:あれは、正確に蜘蛛の化け物と断定できる。そして、あの蜘蛛の化け物は、私を食べようと狙っている。捕獲手段は、蜘蛛糸を放出し、絡め、捕食する。

 

 

成る程……思わず私は、感嘆の溜息を吐いた。

カジュマルの木の後ろに回りこむようにして逃げれば、何とかなる。私はそう思い、立ち上がろうとした。

 

バランスを崩して倒れたのは、立ち上がる直前。血の気が引いていくのが理解る。体が、面白いほど冷えているように思えた。ゼロコンマ一秒が、とても長く感じる。

 

 

足首を、捻っている。

ズキズキした痛みが、バランスを崩す原因の一環となっていた。そして、倒れると同時……生暖かく、粘々とした大量の糸状のものが、私の体の上から降りかかる。

 

しまった。捕まったか。

 

先程とは違い、化け物は私を絡めた糸をゆっくりと取り込んでいく。どんなにもがいても、糸は更に絡まるだけだ。小さい頃に図鑑で見た、蜘蛛糸は足掻けば足掻くほど深く絡まれる、という文章を思い出し、私は、思わず私自身を本気で恨んだ。

 

 

………。

 

仮定 壱:首筋に違和感を感じると同時、悪寒が体を襲い、吐き気が押し寄せてきた。

仮定 弐:吐き気後、体は意思とは関係なく、勝手に動いた。そして、この不気味な場所へ走ってきた。

仮定 参:ここに到着と同時、首筋の違和感が消え、体に自由が戻った。違和感は、粘々とした糸だった。

仮定 :ここには予め、あの化け物が居た。

 

以上の仮定から算出すべき結論:あの糸には操る力があり、私は遠距離から放出されたそれを首筋に受け、ここまで連れてこられた。つまり、私は捕食のための餌である。

 

 

運が悪かったのだろうか。自分がいけなかったのだろうか。蜘蛛がいけなかったのだろうか。

兎にも角にも、私は今……

 

危機に、直面している。

 

 

死にたくない。本気でそう思う。

私は、だって―――

 

まだ、やりたいことが沢山残っているから。

 

死にたくない。生きたい。

死んでたまるか。生き抜いてみせる。

 

意思が、そう決まった時だった――――

 

 

 

「スピットファイア!!」

 

 

ふと、幼い少年のような声が響いた。

その瞬間、背後から強烈な熱気。

 

体が、大きく弾け飛んだ。無様に地面に転がる。体の自由が戻っている、そのことがはっきりと理解った。私は、思わず上半身を起こして自分の体を見やる。

体中に、糸ではなくねっとりとしたモノがへばり付いている。それは、表面からじゅうじゅうと煙を発し、腐った卵のような臭いを発していた。たんぱく質が焦げている、多分そんなところであろう。

 

それは、溶けた蜘蛛糸だった。

 

引き剥がそうとすると、服の上からでも案外簡単に、ペリペリと剥がれた。ずぅっと持っていると非常に熱く、全ての蜘蛛糸の塊を剥がした後、掌を見ると、真っ赤に変色して、水脹れになりそうだった。

 

 

「ようやく見つけたぞ…」

 

 

再び、少年のような声。

私は、声の方向に振り向いて……驚いた。

 

 

2.5頭身ぐらいの、真っ黒な恐竜。

私の半分らいの大きさしかないのに、とても強そうで。

金色の瞳は、どこか幻想染みていて。

 

その顎からは、火の子が所々に噴き出ていた。

 

 

「キシュゥゥゥァアアアアア!!!!!」

 

 

大きな咆哮。蜘蛛だ。

見れば、蜘蛛はもう私たちのすぐ傍まで向かって来ている。

 

黒い恐竜は、舌打ちをしながら蜘蛛に向き直り、そのまま突っ込んでいく。私は、無謀な行為だと思い、その恐竜を止めようとした。喋れるなら、私の言葉も解る筈だ。

 

 

しかし、その言葉も止まった。

 

 

黒い恐竜は、素早く蜘蛛の懐に潜り込み……その、大きな顎をがばりっ、と開いた。

その喉の奥から、橙色の光が溢れ出す。

 

 

 

「ベビーバーナー!!!!」

 

 

 

噴き出る焔は、蜘蛛の体を一瞬にして火達磨に変えた。

黒い恐竜は、素早い身のこなしで蜘蛛から離れ、私のところまで走ってきた。その焔は蜘蛛だけ燃やし、何処にも燃え移ることは無い。蜘蛛も暫く足掻いていたが、次第にその動きが鈍り、やがて、動かなくなり、ただの灰塵と化した。

 

 

「ふんっ、雑魚め」

 

 

黒い恐竜は、それだけ蜘蛛の居る方に言い放つと、今度は私に向き直った。私は、言葉に少しだけ考慮する。

しかし、私が喋る間も無く。

黒い恐竜は、誇らしげに声を上げた。

 

 

 

「俺はB(ブラック)アグモン。選ばれし子供のあんたを探しに来た。今日からあんたは、俺のテイマーだ!」

 

 

 

…………。

 

 

思ってみれば。考えてみれば。振り返ってみれば。

 

 

 

 

これが、私の今までの日常を覆す、最初の日だった。

 

 




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